『私は貴兄のオモチャなの』

kido-nobunaga2004-10-17


久々に。


岡崎京子の名作『私は貴兄のオモチャなの』に収録されている、
Over The Rainbow」という短編。



仕事や日常での歪曲が、恋人との関係を破局まで運び
女友達2人で“虹の彼方”へ向かって走り出す。

という、2行で説明できるストーリー。

最後のフレーズで虹の彼方”ってどこだよ?的な疑問符で締めくくる。




この“虹の彼方”ってどこだよ!? って話。
「ココデハナイドコカヘ」症候群は、
油断するとすぐに心を蝕んでいく。


結局どこへいっても自分の日常の延長線上なんだろう。


今日、この戦場を生き抜いていく。
そうして積み上げたものが唯一、理想の場所なのではないか。
強くそう思う。




極東学園天国』(またしても)で、五色台学園解散の危機に、
間宮学長はこう語りかける。

「他人に用意された場所には何もない」


こう言い換えて、誰も文句は言わないよね。
「自分が創る場所にしか、RealityとPleasureは芽生えない」




 「たえられないくらいなら望むんじゃねえよ」 (安野モ

kido-nobunaga2004-04-08



ヒトの立つべき「場所」について。



安野モヨコ『エンジェリック・ハウス』より。



いつもヘッドホンで自分の世界に浸りきっていた滝沢柊二(14)。
未来からやってきた少年ハルの創ったCDのおかげで
スターミュージシャンになった。


でも弱気で内向的な性格までは変わらず、
「もうスターなんて疲れたよ」
なんて女々しい弱音を吐く。


ハルはそんな柊二にイラだち、
「たえられないくらいなら望むんじゃねえよ」
と吐き捨てる。



むやみに
表現したがったり、リーダーになりたがったり。


僕らもよくそんな醜態を曝す。


その先にある苦しみも知らずに。
無邪気、というか、無神経 というか。


本当に覚悟が決まらなきゃ、
立っちゃいけない場所は思ってる以上に多い。



心の底から望んでもない「思い付き」や「気分」を
さも自分の信念かのように言っちゃあいけない。


自戒も込めて。




 エンジェリック・ハウス

kido-nobunaga2004-04-05

うっきょー!



安野モヲコ作品の中で
なぜか社会派なメッセージ


「文明化の進んだ果ての22世紀の世界は、人々がコントロールされてる均質な文明で・・・・」
「その少年が22世紀を脱走し現代にやってきて、20世紀の人間に警鐘を・・・」
というテーマは手塚治虫チック。



ハゲかかった環境問題の専門家が
同じ主題を三時間にわたって講演してくれても、
何も心には響かないにちがいない。
シリアスに語られる世界への絶望はもう聞き飽きた。



安野モヲコならではの、
スタイリッシュで美貌と色気を備えた研究者、ハルが
現代に逃げてきたからこそ、のインパクトだ。



もちろんここでは、
佐伯啓思『「欲望」と資本主義』とか幸福論の指標みたいな
インテリの好きそうな本の得意ジャンルの話はおいとこう。
たかがマンガだしね。



音楽・映画・ファッション、そしてマンガも。
なくても生きていけるのかもしれないものたち。
しかし、そんな「無駄」がどれだけ豊かなことか。



その「無駄」のなかに
人間が人間たる所以が眠っている。
「人間らしさ」とはそんなところにあったりするんだろう。


地球が平らになった22世紀の
少年がそう言ってるんだから。



「まだ」というか、「もう」というか、
今、実は21世紀なんだよね。




 ジェリー イン ザ メリィゴーラウンド

kido-nobunaga2004-04-04



ファッション特集ということで、
安野モヲコの一番オススメな作品を。



モデル軍団のドタバタラブコメディ。
と、こう説明すると軽い作品のようだ。
まあ、実際軽い作品だからいいのか。



10代ってこういう世界に憧れがあるんだろうなぁ、
ってのを具現化したような、おしゃれっぷり。
カッコよすぎる&可愛すぎる登場人物たちに
ノリがよくて楽しいトークを繰り広げさせる。


これは卑怯だ。オモシロイに決まってる。
安野モヲコの得意技だな。



マンガとしては絶対に楽しめる作品だ。
主人公のミリという女の子はパワフルだ。
「自分探し」チックな哲学気分な中、
恋も仕事も自分の思い通りに運ばせようという
欲張りガールだ。


しかし!!
ミリに影響されて生きようとする女の子は要注意だ。


正直こういう価値観を持ってる人間が
彼女だったらさぞウザいことは間違いない。
(これは個人的な好みの話だというのは、重々承知)


という視点でみてると、
主人公は異様にムカついてくる。


この作品に影響されてしまって、
「ワタシの本当にやりたいことはナニ?」とか
「カッチョいい女になるんだ!」とか
のたまってる女の子はよっぽどの美貌と才能と行動力がなければ
おそらく世間の男は許してはくれない(10代のアオい男は例外)。


「ワタシにはいろんな未来をフラフラ迷う権利があるし、
貴方にはその迷いに付き合う義務がある」と
安易に思っちゃってる女の子は嫌いです。
カワイイ女の子の仮面を利用するやつらは一斉射撃だ。


こんなマインドの女の子が現れたら
少なくとも、オレは逃げ出したい。
(もう一度確認しとくと、
ずば抜けた美貌・才能・行動力、どれかがあれば、話は別です。)




思わず、個人的な女の子の好み(というか嫌いなタイプ)
の話に爆走してしまった。すいません。





ファッション×マンガ

kido-nobunaga2004-04-03


COMME des GARCONS のジャケットを
衝動買いしてしまった罪滅ぼしに書きます。
ファッション×マンガについて特集。




永久に語り継がれるような、
マンガ作品の王道とは一線を画すマンガがある。


岡崎京子や安野モヲコの作品には
「時代」を鋭く描くパワーがあるからこそ、
時代によって評価が分かれるに違いない。




岡崎は90年前後のバブルに沸く日本を冷ややかに見ていた。
華やかな経済発展の中に「空虚」をわしづかみにしてマンガに封じ込めた。


安野は閉塞感を振り払うかのように、「若い世代」をセクシーに魅せる。
さまざまな価値観が崩れたあとのカオスに、色気というかフェロモンを味付けした。




これらのマンガはエネルギーにあふれている。


難しい話でもなくて、簡単な話でもなくて、
「カッコいいのか?ダサいのか?」
それだけを追求した世界は、
思いの外多くを語る。


しかも読み手はそんなこと受け流して、
街へと出かけて「カッコよさ」を追求してしまえる。


だって「カッコよく」なかったら、
何言っても聴いてもらえないんだもん。




岡崎京子の『見方』と
安野モヲコの『魅せ方』。


サブカルチャーとか言われようが、
ここに、確かに、才能がある。




七色いんこ

kido-nobunaga2004-04-02


新人研修でノンバーバルコミュニケーションを指導される。

オレは姿勢が悪い。
声のトーンもテンションが低い。
「閉じてるやつ」と「開いてるやつが」いるのだとすれば(←木村拓哉風に)、
基本的に「閉じてる」ことが多い。


だってアウトローに憧れてるんだもん。
まあいいや。




代役専門の役者にして、盗賊。
ド派手な格好がやけにウザい、ちょっと変わった主人公の手塚治虫マンガ。
複雑な人間関係の複線が、主人公の過去から復讐へと帰結する。
いわばお家芸のシナリオ展開。



与えられた文脈の中で
一つの人格を演じるということ。



それが作品として成立するのが演劇の世界だ。



以前、TDLでダンサーとして働いた経験を持つヒトに会ったことがある。
魅力的な視線、引き寄せられる声色で
その人はこんなことを言ってた。



「みんな自己表現が下手すぎる。自分の持ってる引き出しを体一つで表現する。
そんな修行の積み重ねが演劇だ。ボクは演劇を勉強して本当によかった。
就職活動なんかで、不安でおどおどしてる人らを見てると、
ボクが演劇からどれだけ多くのことを学んだか、実感する」



このセリフは悔しかった。
彼は自身の中にたくさんのスイッチを持っていた。
自分自身をどう表現するのか、
いわば「魅せ方」のスイッチだ。




とんでもない文脈を突きつけられても、
スイッチを入れて飛び込んでいける。


そんな役者を見てると、「参った」と思う。
修行の道は長い。



サラリーマン金太郎

kido-nobunaga2004-04-01



四月一日。晴れて社会人に。
そんなサラリーマン記念日に。




言わずと知れた
本宮ひろし先生の日本人への応援歌。


命がけの喧嘩の連続、
血潮のたぎるような文言の炸裂、
作品中にちりばめられている。


ここでの「サラリーマン」とは
自分の生き方・信念・美学をただ貫く。
そんな職業だ。





もちろんこんな時代に
金太郎的な体当たり人生が送れるとも思わないし、
そもそも「自分の生き方」なんて常に明確なわけじゃない。


だから僕らはまず、
それを問い続けるところから
はじめなきゃいけないのかもね。





会社、ビジネスといったフィールドでは、
自分と自分が許せないものとの戦いの繰り返しであり、
「最後には大事な人に還元していく」という
ルールを守らなきゃいけない。



そんなことを読後に思う。